まどマギとシュタゲの共通点
アニメ版シュタゲが今週の放送分で完結した今、まどマギを観終えたあとに感じたものを形にしておこうと思う。
僕自身、シュタゲはアニメが放送される前に原作をプレイしていたため、まどマギ放送時に既に感じていたことだった。
でも、シュタゲのアニメ放送が始まって「んー、どっかにまとめておきたいけど人の目に触れるネタバレになっちゃうからなー」と悩んだりしてる内にすっかり忘れ去り、今週のアニメ版完結で再び思い出してよし今なら書けると思い立った次第。
そう大したものじゃないと予防線を張りつつ書きます。
まどマギとシュタゲの間にある共通点は大きく分けて二つ。
一つは作品自体に込められた「意味のない努力などない」という前向きなメッセージ。
もう一つは世界全体を都合よく塗りかえることで齎される安易な救いに頼らずに(シュタゲの場合、この辺微妙なラインだが)あくまで登場人物の内面に救いを作り出すことでユーザーにカタルシスを与えている点。
まず、一つ目から。
これはタイムリープものという設定が被っている(もちろんこれは作中用いられる一設定に過ぎずここを突っついてパクリだなんだくだらないことを言うつもりはさらさらない)時点である意味必然と言えるのかもしれないが、まどマギで言えばほむら、シュタゲで言えばオカリンの繰り返してきた努力が最終的には身を結ぶという結果からきています。
時間移動や並行世界というのは度々ADVゲーム的だと指摘されもしますが、あえてそういった比喩を用いれば、ほむらもオカリンも望まない結末を迎えてはリセットボタンを押し最良の√を模索し続けてきたプレイヤーなわけです。
でも、その末に待ち受けていたのは望まぬ結末からは結局逃れられないという現実。
そこで二人は一度絶望し、物語は最悪の結末「絶望に打ちひしがれる主人公(最終的にはほむら視点だし主人公でいいよね!)」へ向かうかと思われます。
しかし、そうは問屋が卸さない。
結果的にはほむらの繰り返してきた時間がまどかの魔力を高め、オカリンの味わった絶望がシュタインズゲートへの道を切り開くことになり、最悪の結末は回避されます。
この言わば落としてから上げる展開は、主人公に対し過剰なまでの「痛み」を与えることで、冷静な視点で見ればご都合主義にも思える物語をすんなりと視聴者に受け入れさせる詐術として非常に効果的だと思います。
ただ、アニメ版のシュタゲはその「痛み」が尺の問題で足りてないように思えた・・・という話はちょっと別の話になるのでまた機会があったらそこで書こうかな。
では、二つ目。
どちらの作品も安易な救いに走っていないという点。
まどマギは多分人によってはバッドエンドにしか思えないという方もいると思います。
実際、僕の友人にも「結局、魔法少女のシステム自体はなくなってないしほむらも魔法少女のままで戦いから逃れられてないしなにも救われてないじゃん」といってる人がいました。
シュタゲの方はそれと比べ、一見すると万事丸く収まった最高のハッピーエンドのように思えるけれど、実は未来が確定していない世界線に移っただけで、これから先他の世界線と同じような事態が起こらないとは限らない。
となると、β世界線のようにディストピア化する未来だってあり得るわけで、それを考えると手放しで喜ぶこともできない。
こうしてみると、どちらも見方によってハッピーエンドにもバッドエンドにもなり得るように思えます。
しかし、この見方というところがミソで、両作品とも「主人公の世界に対する視線の変化」に救いを見出している作品なのです。
ほむらは誰よりも救いたかったまどかを結果的に失いますが、彼女の喪失に絶望することなく、今まで持ち得なかった強い決意で世界を肯定的に捉え、魔法少女としてその後も生き続けます。
オカリンは未来の確定した世界線での体験を経ることで、本来なら不安を覚えるはずの「先の見えない未来」に希望を見出し、自分の意志で世界を変えていく強い心を手にします。
どちらもよくある「こうして彼等は幸せに暮らしましたとさ」的なハッピーエンドではなく、「捉え方次第でどんな世界にも救いは見つけられる」という内的なハッピーエンドを用いているのです。
まどマギを観終えたあと、なんとなくシュタゲをプレイし終えたあとに感じた感動と似たような感覚を覚えました。
でも、それはタイムリープとかそういう表面的な類似点から来るものではなく、上に挙げたような救いの見せ方にあるんだと思います。
前に他の日記でも書いたと思いますが、僕は「なるようになる話」が好きなので、安易な予定調和に走らず、かつある程度のご都合主義を隠蔽してしまえる「痛み」を主人公に与えたこの二つの作品は心に響くものがありました。
似たような作品というと語弊がありますけど、こうした感動を与えてくれる作品がこれから増えてくれることを願っております。